米川正子(立教大学教員、元国連難民高等弁務官事務所-UNHCR-職員)
本映画は、「貧困削減」、「開発援助」、「人道支援」、「ソーシャルビジネス」などの「国際協力」分野に関わっている者、そして特に将来、本分野に関わりたいと考えている若者にぜひ鑑賞を勧めたい。純粋に善行と思っていた国際協力が、時には害を与えていたという事実にショックを受け、苦痛を与えるだろうが、本映画を通して、グローバル構造について真剣に考え議論してもらいたいと思う。
1960年代から現在にかけて、貧困対策に関連する用語が数(十)年ごとに変わってきた。ベーシック・ヒューマン・ニーズ(BHN)、(人間)開発、BOP(Bottom of Pyramid)、ミレニアム開発目標(MDGs)、持続可能な開発目標(SDGs)などなど。また貧困問題に関わるアクターも、伝統的な政府機関、国連機関、NGO、チャリテイー団体に加えて、近年では社会起業家、セレブ、企業も加わるようになった。世界が貧困問題への関心を高め、寄付や援助を増やせば問題が改善するはずと信じられてきた。
しかし、援助だけで発展した国は世界どこにもないのである。
それはなぜか。その理由は、本映画で指摘されたように、貧困問題の根っこにある「植民地の構造」が変わっていないからである。あるいは、援助業界に関わっている人はそれを変えたくないといった方が正確だろう。何しろ援助業界は貧困層ではなく、自分たちを援助しているほどのグローバル産業に発展し、援助を「エンジョイ」するキャリアが定番になったからだ。それも50年間以上にわたって。私自身、以前国連職員としてその恩恵を受けていたので、経験上その現状をよく知っている。
本映画では、上記に加えて、食糧援助の政治や孤児院の「養子ビジネス」に関する興味深い裏話も説明しており、改めて勉強になった。が、一つ欲を言わせてもらうと、次回の映画の課題として追求してほしいテーマがある。それは、援助産業に加えて、援助の真の目的についてだ。
例えば、ルワンダのカガメ大統領が下記のように話す場面がある。
「援助すればするほど、さらに援助が必要になります。
受け手はますます自立できなくなります。
寄付や援助をしている人は、援助している自分に酔っています。
しかし一番の援助とは、自立できるようにすることです。」
一見、正論のように聞こえるが、ルワンダの国家予算の40-50%は外国援助に依存しているため、全く説得力がない。しかもアフリカにおいて、37年間、政権の座に就いているオビアン赤道ギニア大統領、36年間のムガベ・ジンバブエ大統領、30年間のムセベニ・ウガンダ大統領などに次いで、カガメ大統領は22年、政権の座に就いている(注:同大統領は1994年から2000年まで副大統領兼防衛大臣を務めていた頃、大統領以上の権力を握っていたと言われている)。同大統領の元秘書で現在カナダに亡命中のヒンバラ氏によると、「援助はルワンダではなく、独裁者に提供している。それによって、単に悲劇を長期化しているだけ」とのことだ。
ルワンダのように、援助が独裁者の手に渡っていることは既知の事実である。過去にインドネシアのスハルト政権やフィリピンのマルコス政権に対し、その使途が不明瞭でありながら、日本政府が多額の援助を続けたことも強く非難された。日本を含むドナー国は、民主化、グッドガバナンスや人権などを開発援助の前提条件として被援助国(受益国)に支援することになっているが、それらの条件が無視されている独裁政権になぜわざわざ援助し続けているのか。それは、ドナー国が、現地の天然資源の確保、共産主義の国々の打倒、イスラミスト(イスラム主義運動)転覆への対抗のために、独裁者という友人を使用してきたからである。そのため、貧困層のための援助と言いつつ、援助の目的は実際、上記の任務を成し遂げたという「手数料」の意味あいが強い。そのように考えると、なぜ援助が貧困層に長年役に立たなかったのか理解できる。
では私たちにできることは何だろうか。まず本映画で数名の専門家が提案しているように、貧困や援助に関する先入観―つまり「途上国」の人々が「無力」だから、「有能」な「先進国」が助けないといけないという「上から目線」を取り除くことである。そのために、学校教育やキャリア教育も相当な変革を必要とする。また8月下旬に日本政府が主導する第6回のアフリカ開発会議(TICAD)では、再度開発と貧困削減が議題に挙がっている。この機にこれらの問題を批判的に再考し、政府、国連やNGOらに声を上げるべきではないだろうか。
【参考資料】
The Telegraph, ‘Britain’s aid to Rwanda is funding a ‘repressive regime’ says former Kagame official’
24 Nov 2012