なぜ約30年前のサラエボ紛争の頃のことを映画化したのか?
なぜマット・デイモンはプロデューサーになったのか?
映画や音楽は、どのように平和に貢献できるのか?
『キス・ザ・フューチャー』のネナド・チチン=サイン監督インタビューを行いました。
Q. なぜ映画『キス・ザ・フューチャー』を制作することにしたのですか?ボスニア戦争から約30年経ってなぜ今なのでしょうか?
私はその地域、旧ユーゴスラビア出身です。ご存知のように、ボスニアはユーゴスラビアの一部でした。私はクロアチア人の父とセルビア人の母、アルバニア人の妻を持っています。クロアチアで戦争の一部を現地で経験しました。民族主義が私の国を分裂させ、社会がこれほど分断され極限状態に陥った際に何が起こるか、その危険性を目の当たりにしました。
2017年にライブの記念日が訪れた際(U2の1997年サラエボ・ライブから20周年)、あの日のライブを思い出しました。1997年当時、現地にいなかったものの、その影響力と意味の深さを知っていました。サラエボやバルカン半島の人々は、困難な時代を乗り越えるために音楽とアートを用いていました。その当時、私はマット・デイモンとベン・アフレックの会社(彼らがプロデューサーを務める)のための脚本を書き終えたばかりでした。そして、彼らにドキュメンタリー『キス・ザ・フューチャー』のプロデュースを依頼しました。
この映画を作りたいと思った理由は、アメリカではニュースで見られるように、社会が極端に分極化され始めたからです。人々は非常に分断されています。危険な方向に行く可能性があると思います。私はバルカン半島で起こったことを単なる警告の物語として示すだけでなく、音楽とアートが困難な時代に人々を鼓舞し、希望を与えることができることを示したかったのです。
Q. マット・デイモンに映画のアイデアを話し、プロデューサーになってほしいと頼んだ時、彼は最初にどう反応しましたか?
彼は即座に「はい」と答えました。議論も、考え込む時間も、長い話し合いもありませんでした。ただ「はい」と答えただけです。彼はこの物語に意味があると感じたのでしょう。この映画が伝えるメッセージが、世界に伝える価値があるものだと信じていたと思います。
また、彼はこの映画が私にとって非常に個人的なものであることも理解していたと思います。私は彼と脚本作業を終えた直後で、その時点で一定の信頼関係が築かれていたと思います。そして、物語が「暗闇の中の光を見つけること」「困難な時代の人間性」「ナショナリズムの危険性」について扱っている点に、彼は動機付けられていたと思います。
また、私が書いた脚本と同様に、彼はこれが単なる典型的なドキュメンタリーではなく、人々が「悪い状況」について話すだけの作品ではないことを理解していたと思います。私たちは、観客が旅のような体験ができる映画を作りたかったのです。単に説明されるのではなく、感じられるような作品です。これらの要素の総和が、プロデューサーとしての彼を「このリスクを負ってでもやる価値がある」と言わせたのだと思います。
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U2奇跡のサラエボライヴを記録した映画『キス・ザ・フューチャー』の監督が問いかけるものとは
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