ハマスに娘を拉致された家族のドキュメンタリー。正直に書く。観る前には少し逡巡があった。ハマスの残虐さとネタニヤフ政権の正当性ばかりが強調されるのではないかとの思いがあったからだ。でも今は観終えて思う。被害側も加害側も一色ではない。そもそも被害と加害も単純には分けられない。当たり前だ。そんなことはわかっていたはずなのに、その発想をいつのまにか止めていた自分に気がついた。観てよかった。
この作品が映しているのは、
奪われた人ではなく、
残された側の「壊れていく時間」
奪われた人ではなく、
残された側の「壊れていく時間」
家族の生死もわからないまま、待つことしかできない。
それは希望ではなく、無力感とともに息をする日々。
生きているのに、心だけが少しずつ遠くなっていく時間。
なぜ一般市民が繰り返し戦争の理由にされてしまうのかという現実。
国家の論理の中で、人の命が後回しにされていく現実が、
この映画の静けさの奥に存在していた。
私は、第三者のままで観ることはできませんでした。
スクリーンの中の現実が、
観る側の胸の内側に移ってくる感覚があったのです。
映画が問いかける「フェンスの向こう側の人々への想い」
どうか、決して聞き流さないでほしい。
それは遠い場所のことではなく、
私たちの人間としての感覚に向けられたメッセージだと感じました
イスラエルの人質家族の日々を追った稀少なドキュメンタリー。自己保身のためのジェノサイド継続に彼らを最大限活用したいネタニヤフらのプロパガンダに利用され傷つきながらも、和平への架け橋になろうとする姿に一抹の希望を見る。東アジアで、デマと煽動政治のただなかを生きる私たちも、張り巡らされた強固な壁を越えていかなくては。スクリーンに残る複雑な余韻と共に、そんなことを思った。
政治に拉致され、政治に救出を阻まれる被害者と
その家族の憤りと悲しみが、北朝鮮による日本人拉致被害者と
家族の思いに重なり、始終胸を締め付けられる思いでした。
その家族の憤りと悲しみが、北朝鮮による日本人拉致被害者と
家族の思いに重なり、始終胸を締め付けられる思いでした。
私は今、日本に長年滞在している。 もしもイスラエルに住んでいたらと思い描く。父イェフダと同じ道を辿ったと思うが、和解への道は双方民間人の対話の継続なんだと更に確信した。
本当に胸がずっと苦しかった。
僕の知り合いにもリアットさんのご両親と同じ思いを抱えているイスラエルの人はたくさんいる。共存を目指さなければ、報復の連鎖は止まらない…と。重く、厳しい現実だと実感した。
僕の知り合いにもリアットさんのご両親と同じ思いを抱えているイスラエルの人はたくさんいる。共存を目指さなければ、報復の連鎖は止まらない…と。重く、厳しい現実だと実感した。
僕が音楽を書かせて頂いた事のある井上ひさし先生が残された作品には一貫して「報復の連鎖を止める」という強いメッセージがある。その為には目の前の出来事や周囲の声に流されず、自分の頭で考え抜くことが必要だと。そのメッセージが、この映画からもまっすぐ届いた。
そしてその思想のもと、真の平和を心から願い続ける人達がこんな残酷で悲しい目に遭わされてしまう「戦争」という狂気にあらためて怒りと悔しさを感じる。
悲しみと怒り、そして混乱
渦巻く感情をこらえて、老父母と娘は人びとに語りかける
これは信念をうつした映画だ
渦巻く感情をこらえて、老父母と娘は人びとに語りかける
これは信念をうつした映画だ
人がそこに存在する。その当たり前のように思える事実を認めるのがなぜこれほど難しいか。リアットとその家族は悲劇の体験を通してその困難に直面し、希望への道筋を見せてくれる。
この映画は、いろいろな意味でとても深い。「10.7」で人質にされた、リアット夫妻とその父親やきょうだい、子どもらの、それぞれのイスラエルやパレスチナに対する感情がすれ違う。父親はおそらく米国系リベラルユダヤ人で、イスラエルに戻った人。その娘のリアットもリベラルな意識を持つが、なぜガザ境界直近のキブツに住んだのか。そこはかつてガザ地区の内側であり、パレスチナの住民を追い立てた場所。ガザ周辺を取り巻くキブツは、有事の際には前哨地点としての役割を負った場所であり、そこに住む住人は日本の歴史で言えばいわば屯田兵である。リベラルな考えを持つ人であっても、そんな場所に住む意味が理解できないほど、特にこの四半世紀、イスラエルは「国民を無知にする」ということに成功してきた。もはや生身のパレスチナ人との接触は、兵役中以外にはほぼない。この映画に登場する三世代の、パレスチナに対する世代間ギャップは、イスラエルという国が進めてきた支配の構造がどれほど国民に浸透したかを観る者に暗示してくれている。
拉致被害者の家族は家を略奪したハマスへの憎しみを滲ませる。だがそこで吐露する言葉は自身にも当てはまると気付かない。この映画の語られない部分が、皮肉にもイスラエルで浸透する認識の歪さを炙り出している。













